VR黎明期

「サンタバーバラ会議」と「人工現実感とテレイグジスタンス研究委員会」から30年余、日本VR学会発足から4半世紀、VRが学問として確立されてきた道程が多少なりとも見えてきて歴史となりつつある。その中でも特に1993年という年が、世界的にもまた我が国においても、極めて熱気に溢れた、そして今に繋がる多くの事柄を排出した年であったように思われる。

言うまでもなく、VRは、「バーチャル」即ち「物事の本質」を追求する学問である。そして、「人工物ではなく、人間そのものをすべての事象の中心に置く設計論であり、思想であり、芸術であり、学問」である。歴史は繰り返すと言うが、VRが、再び黎明期の熱気を取り戻し、更なる飛躍を呼び、それが社会を大きく変革し、人類に貢献してゆく時代がめぐってきている。この補遺は、VR黎明期当時の記憶を記録として留めようとする試みの一つである。

以下の項目の記載は、主に下記の文献によっています。
舘 暲: 日本のVR -「VR 黎明期の記憶」, 日本バーチャルリアリティ学会誌, Vol.11, No.2, pp.85-88 (2006.6) [PDF]
舘 暲: ICAT2001 報告 -第11回人工現実感とテレイグジスタンス国際会議- 大会長総括, 日本バーチャルリアリティ学会誌, Vol.7, No.1, pp.40-41 (2002.3) [PDF]

 

| サンタバーバラ会議(1990年) | 人工現実感とテレイグジスタンス研究委員会(1990年~1997年) |
| ICAT:人工現実感とテレイグジスタンス国際会議(1991年~現在) | 産業用バーチャルリアリティ展 IVR(1993年~現在) |
| IVRC:国際学生対抗バーチャルリアリティコンテスト(1993年~現在) | バーチャルリアリティ産学研究開発推進委員会(1993年~2004年) |
| National Academy of Science Virtual Reality(1993年) |
| IEEE VRとその前身としてのVRAISとResearch Frontiers in Virtual Reality(1993年から現在) |
| IEEE VRの最初の日本開催(2001年3月) | 重点領域研究「人工現実感」(1995年~1998年) |

 

サンタバーバラ会議(1990年)

1990年の3月4日から9日にかけて、世界中のVR研究者を米国カリフォルニア州サンタバーバラ市に集め、「Human Machine Interfaces for Teleoperators and Virtual Environments」 の会議が開かれた。当時Engineering FoundationのEngineering Conferences Advisory CommitteeのメンバーであったJohn Hollerbach教授が、MIT(マサチューセッツ工科大学)のNat Durlach博士とTom Sheridan教授に相談し、NASAのSteve Ellis博士の協力を得て実現した、VR分野創生ともいうべき世界初の歴史的な会議であった1)

東京大学先端科学技術研究センターの舘 暲たち すすむ 助教授(当時)は、その企画のSteering Committee Memberとして招待され、会議の企画に参画するとともに、会議では「テレイグジスタンス」の講演を行った。図1は、その企画書の表紙である。アメリカの研究者はもちろん、日本やヨーロッパなど世界中の研究者がサンタバーバラのシェラトンホテルに一堂に会して泊り込み、それぞれの研究を発表し、朝から晩まで討論しあった。

図1 サンタバーバラ会議企画書の表紙

Dick Held、Larry Stark、Blake Hannaford、Tom Furness、David Zelter、Fred Brooks、Jaron Lanier、Scott Fisher、Elizabeth Wenzel、Michael McGreevy、S. K. Ganapathy、Bob Stone、Myron Kruger、Tony BejczyといったVRの創始者たちが、ほぼすべて参加するというまさに歴史的な会議であった。日本からは、舘のほかには、UCバークレーの客員研究員として米国に滞在中の廣瀬 通孝 助教授(当時)ら数名が参加した。

実は、同じころ同じような研究が世界中の色々の分野でなされていたのである。工学の中でも様々な分野で研究がなされていたが、芸術や哲学、心理学、医学などといった、それこそ全くの異分野でも研究が行われていたという背景があった。図2に、様々な分野で、それらの技術の進展につれ、いわゆるVRに収斂してゆく様相を示す2)

図2 VRが生まれてきた背景:様々な分野がVRに収斂して行く2)

つまり、分野は違っても狙っていることは究極的に同一であった。何を狙ったかとを、あえて一言で言うならば「等身大の三次元空間をインタラクティブに、自己投射性を有して扱う」ということである。因みに、この等身大の3次元空間、実時間相互作用、自己投射は、いまではVRの三要素と呼ばれている3)

図3 VRの三要素3)

サンタバーバラの会議までは、バーチャルリアリティという統一した用語は使われず、アーティフィシャルリアリティ、テレイグジスタン、テレプレゼンス、サイバースペース、バーチャル環境など、それぞれの分野により、それぞれ違う名前で呼ばれていたが、その会議の中で、バーチャルリアリティが、それらを総称する名称となりうるとの暗黙の合意が形成されたわけである。その意味で、1990年のことを、この分野では一種のビッグバンと考えている。それ以降、この会議に参加した人たちが、それぞれの分野に戻って、それらをVRと称し、さらに研究が推進されていった経緯があるからである。

なお、この会議には、サイエンスライターのHoward Rheingold氏も参加しており、その後、日本も取材し、『Virtual Reality: The Revolutionary Technology of Computer-Generated Artificial Worlds - and How It Promises and Threatens to Transform Businesses and Society』というVRの黎明期を克明に描写した本を1991年の7月に出版することになる。

因みに、MITの学術誌『PRESENCE: Teleoperators and Virtual Environments』も、この会議の最中に行われたアドホックな討論のなかから生まれ、1992年に創刊号が上梓され現在に至っている4)。ほかにも多くの名称が提案され議論される中、McGreevy博士が、PRESENCEという名称を最終的に提案し、皆が賛同して採用された経緯がある。

図4 1990年3月9日、サンタバーバラ会議に集まった研究者が会議を終えて三々五々帰路につくところ

1) N. I. Durlach, T. B. Sheridan and S. R. Ellis Eds.: Human Machine Interfaces for Teleoperators and Virtual Environments, NASA Conference Publication 10071, Santa Barbara, CA (March 1990)
2) 舘 暲: 人工現実感,日刊工業新聞社, ISBN4-526-03189-5, p.10, (1992.9.25)
3) 舘 暲・佐藤 誠・廣瀬通孝(監修・執筆),日本バーチャルリアリティ学会編:バーチャルリアリティ学,コロナ社,ISBN978-4-904490-05-1 (2011.1.11)
4) PRESENCE: Teleoperators and Virtual Environments, MIT Press, vol.1, no.1 (Winter 1992)

 

| サンタバーバラ会議(1990年) | 人工現実感とテレイグジスタンス研究委員会(1990年~1997年) |
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| National Academy of Science Virtual Reality(1993年) |
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人工現実感とテレイグジスタンス研究委員会(1990年~1997年)

我が国でも、サンタバーバラ会議とほぼ同時期にこの研究委員会が生まれたことは、特筆に値する。このことは、既にVRに於いて日本も米国に匹敵する研究が複数生まれ育っていたことを意味する。(社)日本工業技術振興協会の石川信治が、当時、東京大学先端科学技術研究センター助教授であった舘 暲に、委員会設立の相談をしたのが、舘がサンタバーバラ会議帰国直後の、1990年3月15日のことである。石川は、舘のテレイグジスタンスの研究に興味を持ち、それをテーマとした研究委員会を日本工業技術振興協会の中に立ち上げたいと思っていた。

相談を受けた舘は、ISMCR(ロボットに於ける計測と制御に関する国際シンポジウム)のあとの6月23日に、シンポジウムの開催されたヒューストンから帰路サンフランシスコに立ち寄り、まだUCバークレーに滞在中の廣瀬通孝東京大学助教授(当時)と会って、委員の人選や研究会の構成など研究委員会のプランを練った。その結果、1990年10月19日には、第1回の研究会を東京駅のルビーホール12階有明の間で開催するに至ったのである。当日ホールには聴衆が溢れ、講演と討論は熱気につつまれた。この分野進展の予感がひしひしと感じられるスタートであった。その後、この委員会が母体となって、ICATやIVRCなどの現在成長を続けている国際会議やコンテストが生まれて行くこととなる。図に、発足時の委員会の構成を示す。

図 人工現実感とテレイグジスタンス研究委員会

ICAT:人工現実感とテレイグジスタンス国際会議(1991年~現在)

ICAT (International Conference on Artificial Reality and Telexistence) は、その名のとおり人工現実感とテレイグジスタンスに関する国際会議で、1991年の7月に我が国において第1回が開催された。当時は、まだ日本バーチャルリアリティ学会も存在せず、まさにVRが社会展開や産業応用だけではなく、学術としての確立をも模索していた、まさにVRの黎明期であった。(社)日本工業技術振興協会に1990年に発足したVRの研究者や技術者が集まる日本で当時は唯一の学術と産業応用に関する研究会である「人工現実感とテレイグジスタンス研究会」のアカデミックな活動を日本経済新聞社が支援する形で、国際会議の開催を計画したことから端を発している。

研究会の委員長であった舘 暲と,研究会の当時の事務局の石川信治,日経の帰山健一の三者により日本発の国際会議が企画され,廣瀬通孝をはじめとした研究会委員の委員の協力により現実のものとなった。第l回は、1991年の7月9日と10日,東京流通センター・アールンホールにおいて開催された。図に第一回国際会議のProceedingsの表紙を示す。世界的にみてもVRの国際会議が組織的には開催されていなかったことから、この会議には日本開催にもかかわらず、海外から多くの著名な研究者やスタートアップ企業のCEOなどが多数参加した。そして、ここでの研究発表を通じて世界的に有名になった研究者も多い。NASAのSteve Bryson氏はその好例である。

因みに、1991年と1992年は、この ICAT国際会議に付随してVRの製品展示会が開催され、これまた好評を博した。この展示会を母体として、1993年からは、リードエグジビション社と一緒に「産業用バーチャルリアリティ展(IVR)」としてさらに大規模な展示会へと展開されていく。

第1回の成功に励まされ毎年ICATを、人工現実感とテレイグジスタンス研究委員会が、日本経済新聞社の支援を受け開催してきたが、1996年に日本バーチャルリアリティリアリティ学会(VR学会)が発足して、学術的な側面は学会が責任をもって国際会議が開催できる基盤が整った。それにともない1997年からは、ICATは、人工現実感とテレイグジスタンス研究委員会と日本経済新聞社の手を離れ、日本バーチャルリアリティ学会が主催するアカデミックな本格的な国際学術会議となった。その後、Eurographics Symposium on Virtual Environments (EGVE) と連携して、2014からは、ICAT-EGVEとして進展し、今日に至っている。

舘 暲: ICAT2001 報告 -第11回人工現実感とテレイグジスタンス国際会議- 大会長総括, 日本バーチャルリアリティ学会誌, Vol.7, No.1, pp.40-41 (2002.3) [PDF]

図 第1回人工現実感とテレイグジスタンス国際会議のProceedings

産業用バーチャルリアリティ展 IVR(1993年~2022年)

IVR(Industrial Virtual Reality)すなわち産業用バーチャルリアリティ展は、1993年に始まった我が国で最大規模のVRの展示会である。なお、2010年からは、3D&バーチャルリアリティ展に改称され産業以外にも範囲を広げたが、IVRの略称は、International Virtual Reality の略称として、2022年の終了時まで、そのまま継承されていた。

我が国におけるVR関連の展示会の歴史を紐解くと、1991年7月にICATを開催するにあたり、VRの製品展示を行ったのがVR企業展示の最初であると思われる。それに触発され、1992年10月16日から18日には、名古屋でVR EXPO'92が開催され、VRの企業展示会への需要が盛り上がりを見せ始めていた。そのような中、リードエグジビションジャパン社から、当時、東京大学先端科学技術センターの教授であった、舘 暲にVR展示会企画への協力の依頼があった。舘は、図1に示すような企画委員会を構成して委員の協力のもと展示会の案を練った。その結果、1993年6月23日に幕張メッセで第1回が開催されるに至った。当時は、併設された設計・製造ソリューション展の一列程度の場所を占めるに過ぎなかったが、その後、成長して大きなスペースを占め、名称も、3D&バーチャルリアリティ展とあらため、我が国におけるこの分野の最も重要な展示会としてその位置を不動のものとしていた。なお、2022年6月の開催をもって、その役目を終え、「XR総合展」「メタバース活用 EXPO」として更なる発展を目指すことになった。

図1 最初の企画委員会メンバー

なお、1993年の時点では、我が国にまだバーチャルリアリティに関する本格的な学術講演会がなかったことから、IVRのセミナーは、講演のProceedingsを刊行し、学術講演会にかわる役割の一部をなしていた。因みに、Proceedings は、2001年まで毎年刊行されたが、1996年に、日本バーチャルリアリティ学会が設立されてからは、次第にVRの学術講演会としての役割は少なくなり、セミナーはVR業界を対象といて絞られ、Proceedingsの刊行はされなくなった。図2に、第一回セミナーのプログラムを、図3に第一回セミナーのProceedingsの表紙を示す。錚錚たる顔ぶれの演者が講演していることが分かる。

図2 第1回セミナーのプログラム

図3 第一回セミナーのProceedingsの表紙

IVRC: 国際学生対抗バーチャルリアリティコンテスト(1993年~現在)

IVRCは、1993年から始まった学生の学生による学生のためのバーチャルリアリティコンテストであり、呼称は、1993年当初はInter-collegiate Virtual Reality Contest、2004年からは International collegiate Virtual Reality Contest、2020年からは Interverse Virtual Reality Challengeと時代のともに変容しているが、IVRCという略称とその精神は不変である。実行委員長は、1993年から2019年の間、舘 暲(東京大学名誉教授)が務め、2020年からは、稲見昌彦(東京大学教授)が務めている。1993年の発足当時にIVRCに参加した若者たちは、IVRCを礎として研鑽し、30年になろうとする年月が過ぎた今、知命すなわち数え年50歳を迎えた責任のある立場の大学教授や会社の役員として、また信頼できる技術者、現代を牽引する芸術家として、あるいは躍進する起業家や経営者として国際的に羽ばたき活躍している。以下に、このIVRCが生まれた経緯を黎明期の記録として綴る。

ICAT(International Conference on Artificial Reality and Telexistence)が創始された1991年と翌年の1992年には、学術講演に併せて、VRの製品展示会が開催され好評を得ていたが、1993年からは、それが独立して、IVR(産業用バーチャルリアリティ展)として大々的に開催されることが決まっていた。そのような状況下、製品展示会にかわってICATに併設して行うのに相応しくかつ製品展示を上回る価値ある行事はなんであろうかを当時ICATの組織委員長であった舘 暲(東京大学先端科学技術研究センター教授)は、呻吟し熟考した。その結果、舘は、最も価値あることは、次の世代を担う若者を育てることであると確信したのであった。VRが、1992年当時、21世紀にむけての将来の重要なキーテクノロジーであることは、直感的には明白であった。しかし,それが客観的に実証されるためには、何よりもそれが次世代を担う若い世代に受け入れられるものでなくてはならない。若い世代が興味を持って、情熱を注げるものでなくては、新しい技術として根付いて行けない。舘は、そう感じたのであった。

そのような観点からすれば、学生対抗のバーチャルリアリティコンテストはまさに格好の企画である。舘が、ICATの組織母体である日本工業技術振興協会の石川信治と日本経済新聞社の帰山健一に、製品展示会に代わるものとして、コンテストを提案したところ大いなる賛同が得られたのであった。そのあとの具体的な内容は、舘が、当時、舘の研究室の助手を務めていた前田太郎(現大阪大学教授)とディスカッションしながら練りに練った。

1993年の7月6日と7日の両日、出来上がったばかりの天王洲アイル。その柿落としも兼ねて第3回の「人工現実感とテレイグジスタンス」国際会議ICAT’93が開催され、このICATに併設するかたちで、第l回のVRコンテストが初めて執り行われたのである。

1996年のVR学会設立にあわせて、ICATとIVRCの主催がVR学会に移行したが、決勝大会はやはり幕張での開催であった。1997年になって、コンテストを支援する機関が日本経済新聞社から岐阜県へと移行したことに伴い、VR学会と岐阜県の共催となり、コンテストの決勝大会は岐阜での開催となった。2009年には、ふたたびVR学会の単独主催となり、紆余曲折はあったが、日本科学未来館で決勝大会の開催となり、さらに、2017年と2018年は幕張メッセ、2019年はテレコムセンター、2020年には、コロナ禍のもと、バーチャル開催となり現在に至っている。

国際という名称が示すように、IVRCは、国際力を磨く十分な機会を提供してきた。例えば、コンピュータグラフィックスとインタラクションの分野で世界最高とされているSIGGRAPHのEmerging Technologies(Etech)に、グランプリ作品を中心としたIVRCの作品が2002年から多数選ばれており、その水準の高さが世界的に知られている。また、フランスのLaval Virtualとの交流も脈々と続いている。Laval Virtualの優秀作品を日本がIVRC Award受賞作として選定し日本に招待する一方、日本の決勝大会での優秀作品をフランスが Laval Virtual Award受賞作として選定してフランスに招待する仕組みは、2003年以来継続している。

VRの道は入りやすく、それでいて奥が深い。人間の根源に迫る科学技術であるからである。それは、学生の選ぶ針路として優れた分野の一つであるということを意味している。毎年IVRCに出場した若者の多くが、その経験を糧として、さらに鋭意努力して己の道を極め、また、現在各界で活躍している多くのIVRCの先達たちと、IVRCの場を始めとする様々な場をとらえて交流し、VRやオーグメンティドリアリティ(AR)またテレイグジスタンス(Telexistence)など人間の能力を拡張する、人間のための科学技術の新たなステージで大いに活躍している。

舘 暲: バーチャルリアリティ(VR)コンテストはいかにして生まれたか, 日本バーチャルリアリティ学会誌, Vol.8, No.4, pp.34 (2003.12) [PDF]

 

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バーチャルリアリティ産学研究開発推進委員会(1993年~2004年)

名伯楽でフィクサーともいえる故馬場幸三郎が組織した産学の「VR委員会」である。1993年8月27日に第1回の定例会が開催された。舘 暲東京大学教授が委員長を務め、原島 博東京大学教授、山崎芳男早稲田大学教授を副委員長とする3名を中心として運営された。

そもそもは、馬場が、舘の先端研(東京大学先端科学技術研究センター)の研究室を突然尋ねてきた1992年7月28日から始まった。馬場が、舘のVRの講演を聴いて、この分野の振興が我が国にとって焦眉の急であると直感し、まずは産官学をまとめた勉強会を開きたいので、そのまとめ役になってほしいとの申し入れを舘にしてきたことに起因する。それから、1年の準備期間を経て、(財)イメージ情報科学研究所(イメラボ)の委員会として活発に活動を続け、「ヒューマンメディア」の国家プロジェクトなど多くのプロジェクトを生みだした。

 

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National Academy of Science Virtual Reality(1993年)

National Academy of Science(米国科学アカデミー)の National Research Council (NRC)が、Virtual Realityの調査研究を行った。その会議に、当時東京大学先端科学技術研究センター教授であった舘 暲が、日本からは唯一ワシントンに呼ばれ日本の現状を報告した。

1993年2月25日と26日の、晴れてもすぐに雪がぱらついたりする寒い日であった。その調査研究の結果は、提言として政府に提出されるとともに、本としてまとめられている。図に、報告書の表紙を示す。

時まさに民主党のアール・ゴアが副大統領となり、情報スーパーハイウェイ構想が提案され、その一環として、人間と情報のインタフェースとしてのVRが探求されたのであった。これが、米国でのVRの進展の起爆剤となった。

図 NRCのVR調査報告書

 

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| IEEE VRの最初の日本開催(2001年3月) | 重点領域研究「人工現実感」(1995年~1998年) |

 

IEEE VRとその前身としてのVRAISとResearch Frontiers in Virtual Reality(1993年から現在)

IEEEのNeural Network Councilが、1993年9月に初めて開催したVRAIS (Virtual Reality Annual International Symposium) は、IEEE VRの前身として良く知られているが、実は、「IEEE Symposium on Research Frontiers in Virtual Reality」というもう一つの重要な会議が、Visualization'93 の一環として、1993年10月にSteve BrysonとSteve Feiner教授を大会長として開催されたことは、日本ではあまり知られていないようである。実は、この会議を主催したTechnical Committee on Computer Graphicsが、Visualization色を強め、TVCGとなり、現在のIEEE VRの母体となっているのである。図3に、その歴史的なCall for Participationを示す。

図3 Research Frontiers in Virtual Reality

 

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IEEE VRの最初の日本開催(2001年3月)

IEEE VRの日本開催は、日本バーチャルリアリティ学会の設立時からの悲願ともいえる懸案であったが、2001年3月13日から17日、横浜国際平和会議場で成功裏に開催することができた。この会議が、21世紀の初頭であったこと、日本が米国以外で開催された初めての場所であり、老壮若の皆の和で成功したことなど記念すべき国際会議となった。

日本バーチャルリアリティ学会(VR学会)の設立準備の時から、VRAIS (Virtual Reality Annual International Symposium)を日本で開催することが大きな目標の一つとして掲げられていた。しかし、その道は必ずしも平坦ではなかった。というのも、VRAISはIEEEのなかのNeural Networks Councilが始めた会議であり、一方、1993年の同じ年にComputer SocietyがVirtual RealityとVisualizationの国際会議を開催したのである。そのような中、同じ性格の会議がIEEEに二つあってもどうかという議論から、両者で1年ごとに主催者を交代しながら行うことで話し合いがなされSteering Committeeが結成され、交代で会議が開催されていた。

VR学会は、そのコンタクト先を、それまでの縁からNeural Networks Councilとしていたのであったが、実は、Computer Societyのほうが会議に熱心であり、しかも会員も多く、VRの所掌分野としても適切であることから、1996年のVR学会設立の時点では、会議の運営が実質上Computer Societyに完全に移行していたのであった。

VR学会の中心メンバーのことを良く知っているNeural Networks Councilは、本来は、Neural Networks Council が主導で開催する順番にあたる1999年に、日本で開催という日本からの提案を受け入れて、それをSteering Committeeに提案したのではあるが発言力は無いに等しく、Computer Society側は猛反対し急遽ヒューストン開催を主張したのであった。つまり、日本などにまかせられない。どうしてもやりたいならば、日本とアメリカ両方で年2回行えばよい。何が何でもテキサスでの1999年3月開催は強行するといった考えに固まっているようであった。一方、日本開催はVR学会の悲願ともいえ、理事会としては会長の舘 暲(当時:東京大学教授)に全権を託して、何とか単独開催の交渉を1998年の開催地であるアトランタで行ってほしいという意思が固かった。そのような状況の中、舘は,単騎アトランタに向かった。

1998年3月14日、次回の開催地が決定しないという前代見問の状況のなか、アトランタでのVRAISは始まろうとしていた。開会式の始まる前々前日、そして前々日と前日、ホテルにおいて、舘はひとりだけ、Steering Committee のメンバーから代わる代わる呼び出され、そのつど大勢の有力者たちに囲まれながら白熱の議論を闘わせることになった。険悪な雰囲気のなか始まったこの三日にわたる話し合いではあったが、不思議なことに、舘が辛抱強く語り説明していくうちに、IEEEコンピュータ学会側の重鎮たちも氷解し、次第に話が通じるようになっていった。まことに不可思議な経験であったと舘は回想する。

しかも、最後には完全に意気投合し、画期的な改革案と解決案に辿り着く。つまり、国際会議をいままでのVRAISというシンポジウムから、IEEEコンピュータ学会主催のコンファレンスに格上げし、今後飛躍的に発展させるべく会議名をIEEE VRと改名するとともに一年一会議開催の原則も樹立した。その上で、今後の開催スケジュールを1998年の時点で2001年まで決定し、2001年には日本VR学会とIEEEコンピュータ学会が共催し、IEEE VRを日本で開催するという解決案に達したのであった。そして最後のVRAISとなるアトランタでのVRAIS当日の朝一番の開会式で、そのことが大会長から告げられた。まさに歴史が創られた感激の一瞬であった。

それから3年、毎月理事会の1時間前より、VR学会会長の舘を組織委員長としてしてIEEE VR組織委員会の会議を行うなど、VR学会が総力を挙げて準備にあたった。その結果、会議は2001年3月13日から17日、横浜国際平和会議場で開催され大成功に終わった。日本開催を決めて本当によかったと当時のコンピュータ学会の重鎮たちが、Steering Committee でしみじみと語った。VR学会の設立準備の時からの悲願が達成され、3年にわたる組織委員会の苦労はここに報いられたのであった。

図11 日本で行われたIEEE VR 2001 Steering Committee Meeting

舘 暲: IEEE-VR2001 大会報告−総括, 日本バーチャルリアリティ学会誌, Vol.6, No.1, pp.37-38 (2001.6) [PDF]

 

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重点領域研究「人工現実感」(1995年~1998年)

人間は実空間から物理量を感覚器を介して受けとり、効果器によって実空間の物理量を変化させて行動する。そのとき、人間の体内においてそれら物理量によって心理効果が生じる。同一の心理効果を実環境と同一の物理量ではなく、その物理量の一部あるいは別の物理量を用いて発生させるのにはどのような物理量を人間に提示し、どのように物理量を操作すればよいのであろうか。そのための最適なインタフェースの設計法とはいかなるものなのか。そのためにコンピュータが生成する空間はいかにあるべきで、いかなる演出が必要か。これらを明らかにしつつ、しかも人工現実感の技術を人間と社会の立場から公正に評価しながら進展させていくことが、まさにバーチャルリアリティの追求する最重要課題といえる。

VR学会設立以前の1990年から当時の文部省科学研究費補助金(科研)の「重点領域」に人工現実感の分野を申請したいとの願いは「人工現実感とテレイグジスタンス研究委員会」をはじめとするこの分野を研究する皆にあり、人工現実感とテレイグジスタンスの研究委員会の後など、有志で相談されていた。重点領域研究は、新しい学問分野を築くための試みとして設置する新しい学問領域への挑戦プロジェクトである。重点領域研究申請の前段階として、1991年の総合研究(B)を実施し、それを皮切りに準備を重ね、二度目の申請が認められ、1995年から3年間、文部省の重点領域研究「人工現実感の基礎的研究」を行うこととなった。これは、まさに上記の問題への挑戦の第一歩であった。

1995年から1998年の間、人工現実感すなわちVRを学問領域とすべく、主な日本の研究者60人以上が集まって四つの班を構成して研究を推進した。「人工現実感」が重点領域になったことが、日本バーチャルリアリティ学会の1996年の設立に繋がって行く。舘 暲(東京大学教授)が領域の代表を務めるとともに、『人工現実感の解明に関する研究』の研究代表者を務めた。『感覚提示と感覚・行動相互作用に関する研究』に関しては,佐藤誠(東京工業大学教授)が, 『バーチャル世界の構成手法』に関しては,廣瀬通孝(東京大学教授)が,『体内および外部世界の人工現実感の評価研究』に関しては,伊福部達(北海道大学教授)が,研究代表者となって研究を実施した。このVRプロジェクトにおける四つの視点は、非常に重要な視点であり、特に『体内および外部世界の人工現実感の評価研究』はこの時期においては、斬新であった。今では当然のことである世の中の関係という視点を堅持しながら技術を進めていかなければいけないという考え方をプロジェクトの4本柱のうちの一つに据えるという視座は、当時としては新しいことであり,非常に重要な使命であったといえる。

前述のように、その重点領域『人工現実感』の一つの成果として,日本バーチャルリアリティ学会が1996年の5月に設立されて,現在に至っている。そして、2000年2月には、研究成果が纏められ,『人工現実感の基礎』,『人工現実感の設計』,『人工現実感の構成手法』,『人工現実感の評価』の4冊の本として上梓された。その本の構成をベースとして、現在では,バーチャルリアリティが学問分野として定着し,日本VR学会から『バーチャルリアリティ学』という教科書が出版されるに至っている。