日本バーチャルリアリティ学会

バーチャルリアリティがIEEE SPECTRUMの表紙を飾り、またバーチャルリアリティの国際会議VRAISが開催されるなど、VRが世界的に学問分野として認知されはじめた1993年、我が国においても、文部省の重点領域研究「人工現実感の基礎的研究」の準備が進められ、「人工現実感」が学問の一つの領域として生まれようとしていた。その息吹のなか、志を同じくするものが数名集まってこの分野を新しい学問分野として確立すべく、学会を創設しようとする機運が高まっていた。実際,「人工現実感」の準備会のあとなど、しばしば、夜遅くまでその議論で盛りあがっていた。

二年間の準備活動を経て重点領域「人工現実感」が正式に開始されたのが、 1995年7月11日(火)であった。その重点領域の全体会議の席上で、当時、「領域代表者」を務めていた舘 暲たち すすむ(東京大学教授)から学会設立の提案が行われ、参加した研究者からの強い賛同があった。それを受けて、第1回の設立準備会がもたれたのが9月22日(金)、その議事録によれば、舘 暲,原島 博,廣瀬通孝,岩田洋夫,福田敏男の5名が集まり、会誌、論文誌、ニューズレター、WEBサイトの設立などに加え、将来は、ぜひともIEEE Trans. on VRをめざすことなどが論議されている。設立総会及び記念講演会を5月27日の好日、東京大学山上会館で行うことを目指し準備することもその時既に予定している。

発足当時から、バーチャルリアリティは、21世紀の根幹技術の意味合いを持つことから、今後に向けて十分な学問体系を築くことが緊要であり、そのために学会の果たす役割は極めて大きいとの認識を有して活動を行った。特に、情報の的確な発信が重要であり、1996年という国内外でも学会としては極めて早い時期からWEBを立ち上げ、e-mailによるニューズレターの会員への配信や連絡なども行った。

国際会議については、1991年に発足した伝統のあるICAT (International Conference on Virtual Reality and Telexistence) 「人工現実感とテレイグジスタンス」国際会議を1997年からVR学会が引き受け、また、VR学会発足時からの悲願ともいえるIEEE Virtual Reality国際会議を2001年3月に横浜国際平和会議場で成功裏に開催した。

芸術と技術の融合に関しては当初からの目的の一つでもあり、その観点からVR文化フォーラムが毎年企画され、年々充実の一途をたどっている。学生対抗手作りバーチャルリアリティコンテストも1997年からVR学会が共催し、その優勝者や参加者のなかには、今ではVR学会で大活躍している若手研究者も数多く輩出している。

以下、日本バーチャルリアリティ学会の生まれた背景、生まれる過程、初期の活動などを記録として留める。

舘 暲: 会長退任の挨拶, 日本バーチャルリアリティ学会誌, Vol.6, No.1, pp.6-7 (2001.6) [PDF]
舘 暲:日本バーチャルリアリティ学会小史 1990年-2001年: 前史と草創期, 日本バーチャルリアリティ学会誌, Vol.21, No.1, pp.14-23 (2016.3)
[PDF]

 

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学会設立の背景

そもそもの始まりは、VRのビッグバンともいうべき「サンタバーバラ会議」である。正式名は、「Human Machine Interfaces for Teleoperators and Virtual Environment」であり、1990年の3月4日から9日まで、米国カリフォルニア州サンタバーバラ市のシェラトンホテルで開催された。この会議の議論の結果、それまでに多くの分野で行われていた新しい研究開発が、実は「等身大の三次元空間を自己投射性を有して、インタラクティブに扱う」試みであって、分野は違っても共通の原理として扱えることが確認され、新たなる学術技術分野としての「バーチャルリアリティ」が生まれたのである。

図1 1990年3月9日 サンタバーバラ会議を終えて三々五々帰路につくところ

サンタバーバラ会議のSteering Committeeの日本からの委員であった舘 暲たち すすむ(当時:東京大学助教授)が会議から帰って直後の、1990年3月15日に、(社)日本工業技術振興協会の石川信治が、舘の研究室に委員会設立の相談に訪れた。舘のテレイグジスタンスの研究に興味を持ち、それをテーマとした研究委員会を立ち上げたいとの相談であった。そこで舘は、ヒューストンで開催されたISMCR(ロボットに於ける計測と制御シンポジウム)の帰路、急遽サンフランシスコに立ち寄り、UCバークレーに滞在中だった廣瀬通孝東京大学助教授(当時)と会って、二人で研究委員会の構想を練った。

その結果、「人工現実感とテレイグジスタンス研究委員会」が創設され、1990年10月19日に第1回の研究会が開催されることになる。会場の旧東京駅のルビーホール12階有明の間には聴衆が溢れ、講演と討論は熱気に包まれ、この分野進展の予感がひしひしと感じられるスタートであった。その後、この研究委員会が母体となって、世界で初めてのVR分野の国際会議ICAT(International Conference on Artificial Reality and Telexistence:人工現実感とテレイグジスタンス国際会議)と、世界初の学生VRコンテストであるIVRC(International collegiate Virtual Reality Contest:国際学生対抗バーチャルリアリティコンテスト)が生まれてゆく。

ICATは、1991年7月9日-10日、IVRCは、1993年7月6日-7日に、それぞれ第1回が開催され、爾来、毎年開催されて現在に至っている。また、1991年5月9日には、計測自動制御学会ヒューマンインタフェース部会、日本ロボット学会サイバネティックインタフェース研究専門委員会、電子情報通信学会マルチメディア仮想環境基礎研究会が設立され、情報処理学会により第1回の「人工現実感研究会」が開催された。

米国では,サンタバーバラ会議におけるVRのビッグバンを受け、1993 年2 月25 日と26 日National Academy of Science ( 米国科学アカデミー) のNational Research Council (NRC)により、Virtual Reality の調査研究のための会議が開かれた。それを契機に、IEEE (米国電気電子工学会)が、1993 年9 月18から22日にVRAIS (Virtual Reality Annual International Symposium)を、また,10月25日から26日にはIEEE Symposium on Research Frontiers in Virtual Realityを開催している。この二つが基になり、現在の IEEE Virtual Reality の国際会議となっている。

VRビッグバンは、書籍や学術誌の出版も生んだ。我が国では,『人工現実感の世界』が1991年5月15日に出版され、『バーチャル・テック・ラボ』が1992年5月22日に上梓された。一方,米国では,1991年7月に,『Virtual Reality: The Revolutionary Technology of Computer-Generated Artificial Worlds - and How It Promises and Threatens to Transform Businesses and Society』が上梓され、1992年には,学術誌『PRESENCE: Teleoperators and Virtual Environments』が創刊された。

図2 我が国におけるVRの最初の啓蒙書(左)と学術書(右)

VRの製品を集めた展示会も開催されるようになる。最初の展示は、1991年7月9-10日に開催された第1回ICATにおける技術展示であり、1992年10月16-18日に名古屋で開催されたVR EXPO’92であるが、現在まで継続している展示会は,IVR(産業用バーチャルリアリティ展)で、第1回は,1993年6月23日-25日に遡る。

 

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学会設立への道標

このような背景のもと、人工現実感とテレイグジスタンス研究委員会のメンバーを中心として、バーチャルリアリティを学術分野として確立したいという想いが1990年の研究員会発足の当初からあった。それは、このような新しい技術の健全な発展のためにはバーチャルリアリティ学の存在が必須であり、そのためには、まずは、日本の知を結集した新しい学術分野の創成が不可欠であると確信したからである。そこで、文部省の科学研究費を申請し、1991年10月4日に初会合をもった文部省の総合研究(B)「人工現実感に関する総合的研究」の中で、新学術領域の創成にむかった準備が進められたのである。結果、1995年には、文部省の重点領域研究「人工現実感の基礎的研究」が認められ、新しい学術分野が発足するに至った。図3は、その重点領域の最初のニューズレターである。事務局は、領域代表者であった東京大学工学部計数工学科の舘 暲教授の教授室に置かれ、ニューズレターの編集は、池井寧東京都立科学技術大学講師(当時,現在:東京大学特任教授)が担当したことが記録から分かる。

図3 重点領域「人工現実感」の最初のニューズレター

かくして新学術領域が生まれたわけであるが、このような学術分野が、継続的に発展するためには、分野に関する知の体系を論文や書籍として構築するだけでなく、新しいアイディアの発表や成果の社会への還元、そしてそれを担う人材の育成などを継続的に行う場が必要となる。そのような背景のもと、1995年7月11日、重点領域の第1回の総括班会議と全体会議の席上で、領域代表者の舘 暲から学会設立の提案がなされ、参加していた研究者からの強い賛同を得た。

重点領域の総括班会議に於ける学会設立の決定を受けて、第1回の設立準備会がもたれたのが9月22日、舘 暲、原島 博、廣瀬通孝、岩田洋夫、福田敏男の5名が集まり、会誌、論文誌、ニューズレター、WEBサイトの設立などに加え、将来は、ぜひともIEEE Trans. on VRをめざすことなどが論議されている[2]。このいわば創始者5名による第1回準備会では、設立総会及び記念講演会を5月27日の好日、東京大学山上会館で行うことを目指し準備することも既に決めていた。第2回の準備会は、10月11日に開催し、続いて、第3回と第4回を、それぞれ11月22日と12月5日に開いて、1996年から2001年までのVR学会大会の候補地と大会長候補を論議し内定している。第5回は、12月25日にもたれた。そのころには、舘 暲、池井 寧、伊関 洋、岩田洋夫、小鹿丈夫、佐藤 誠、下条信輔、竹村治雄、長田昌次郎、原島 博、廣瀬通孝の11名が集まり、最初の理事会を構成するメンバーに近づいている。なお、この第5回の準備会では、1996年1月29日に開催する学会設立準備会のメンバー50名を選出している。

1996年1月29日の第6回設立準備会は、50名からなる拡大準備会で、発起人および賛助会員の検討をおこなった。それに基づき1996年2月20日に発起人打ち合わせ準備会、2月22日発起人打ち合わせ会、3月13日には、バーチャルリアリティ分野の碩学278名を発起人として発起人大会を開催するに至った。次いで、4月2日には、梶原拓岐阜県知事と舘 暲との二者頂上会談を行い、その結果、岐阜県からの支援を当初の5年間学会が受けることが決まり、学会の船出に勢いがつくことになる。その順風を帆に受けて、4月9日幹事会、5月2日発起人幹事会、5月17日幹事会などと地道に会合が重ねられ準備が行われた。学会の会員の会費が入るまでに当座の準備金が必要である。その準備金として、最初の理事候補者による10年分の会費の先収めを行いそれに当てた。この固い結束により当座の資金も揃い、1996年5月27日に設立総会を開催され、日本バーチャルリアリティ学会が正式に船出したのである。

設立総会及び記念講演会

1996年5月27日の10時から11時に設立総会が行われ、日本バーチャルリアリティ学会が正式に発足した。バーチャルリアリティという言葉が生まれた1989年を、VR歴元年と呼ぶならば、設立の時点は、VR歴8年にあたることは、舘 暲による「日本VR学会の設立にあたって」という巻頭言に記載されている[3]。因みに、2016年がVR元年と言われたが、実はVR28年にほかならない。このように、3DとVR は、30年周期で大きなブームとなることが過去のデータの解析から分かっている[4]。VR歴は、偶然、平成と一致しているので覚えやすかったが、令和になり、リセットされてしまった感がある。

総会に引き続き、記念講演会が行われた。発足時の役員は、会長:舘 暲、副会長:藤正 巌/釜江尚彦、総務・会計:竹村治雄/野村淳二、論文集:岩田洋夫/伊関 洋、大会:廣瀬通孝、大会・国際:福田敏男、ニューズレター:佐藤誠/池井寧、広報:小鹿丈夫/河口洋一郎、企画:原島博/三橋哲雄、出版:山崎芳男/東倉洋一、監事:坂根厳夫/安岡正人、特別顧問:井口雅一/石井威望/大山正/小林登の各氏であった。記念講演会の演題と講演者を図4に示す。学会設立は、いくつかの新聞でも報道された。図5は、読売新聞2016年5月29日朝刊に掲載された記事である。この報道のみが、仮想現実という誤った訳語を使わずに正確な報道を行ったことは特筆に値する。

なお、総会と記念講演会の詳細は、学会誌の第1巻第1号に、講演の講述筆記も含め詳しく記載されている[5]。勿論、四半世紀を経て技術そのものは進展しているが、講演で述べられているVRの考え方は、現在、そのまま講演しても十分に通用する内容であることに驚かされる。

図4 設立総会・記念講演会

図5 VR学会発足の報道(読売新聞1996.5.29)

事務局

学会の事務局は、設立準備室の段階から引き続いて、東京大学工学部計数工学科の舘 暲の教授室に置くことになった。1996年の当時は、このように、学会の会長の教授室に学会の事務局があるのが通例であった。従って、学会の事務は、舘教授室秘書が兼務で務めた。その中でも主として学会を担当したのは、設立準備の段階から発足してしばらくまでは、和泉聡子、2016年9月からは、田中あづさであった。田中は、VR学会のバーチャル事務局長ともいうべき仕事をこなし、皆から頼りにされる存在となった。

事務局は,舘が会長職を退任した後も、事務局が独立するまでは、舘の研究室で引き続き事務局を引き受けていたので、ほぼ6年間、東京大学の舘教授室にあったことになる。法人化の条件として独立した学会事務局が必要であったため、大学内を離れることになり、学外に移転したのが2002年4月のことである。赤門クリスタルビルの9階の(財)イメージ情報科学研究所(イメラボ)の一隅に間借りした。しかし、イメラボが東京から撤退することになり、あらたに学会事務局の場所を探す必要が生じた。本郷三丁目の駅近くの山越ビルが駅からの近さや同居する他のテナントや賃貸料など申し分なかったため、その場所が選ばれ、2004年7月1日に入居し、ほぼ15年間存在したが、事務局機能を外部委託することになり、2019年4月からは、新宿区山吹町にあるアカデミーセンターに事務局が移転した。

 

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理事会

現在は、東京大学伊藤国際学術研究センターが建っている場所に、当時は、学士会館の分館があった。理事会は、原則その会議室で開催された。午後6時から夕食をとりながら、理事の集まりを待ち、6時30分から9時の閉館直前まで、理事は、学会運営のための知恵を出し合った。知恵だけではなく直接皆が汗もかいた。このスタイルは、場所こそ変われ健在である。

記念すべき第1回の理事会は、1996年6月14日(金)に、舘 暲、藤正 巌、野村淳二、釜江尚彦、竹村治雄、岩田洋夫、廣瀬通孝、福田敏男、佐藤 誠、池井 寧、小鹿丈夫、河口洋一郎、三橋哲雄、山崎芳男(敬称略)の14名の理事の参加を得て開催された。6月10日現在の、会員数の報告があり、正会員193名、学生会員27名、賛助会員14団体からのスタートであった。そのほぼ1年後の1997年3月には、正会員382名、学生会員100名、賛助会員31団体となった。その後は、1998年3月24日、会員合計650名、1999年3月3日、788名、2001年3月23日には、920名となった。因みに、2021年2月現在、会員合計1470名(正会員1017名、学生会員453名)、賛助会員41団体、購読会員27団体である。

 

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大会

2001年までの大会の大会長が、学会準備の段階から決まっていたことは既に述べた。第1回の大会長は東京大学の廣瀬通孝が小木哲朗(現在:慶應義塾大学教授)を幹事として務めた。場所は、国立オリンピック記念青少年総合センターで、1996年10月8日と9日の両日に執り行なわれ、参加者は、380名に達した。会員数を上回る参加者ということが当時の熱気を示している。立花隆、杉山知之による特別講演、論文発表や製品展示に加えて、いまでは一般的になっているデモ展示やアーティストによる展示などが他学会に先駆けて行われたことは特筆に値する。参加者の年齢層が低いことも当時のVR学会大会の特徴であり、懇親会の食事があっという間になくなることで有名になった。懇親会に若手が多く参加する学会は活力に満ちあふれているのである[6]。

太古は同一のartという言葉でありながら別れて久しい、技術と芸術の統合をうたうVR学会として当然のように、ポスターの図柄は、河口洋一郎の作品が使われた。図6に最初のポスターを示す。そのデザインの中央に黒い四角があしらわれている。これは、当時、河口洋一郎という巨匠の作品に、加工を施したということで話題を呼んだ。結局、それがVR学会の進取の気質で良いところということで不問にふされた。図7は、プログラムの表紙である。これも、若手が会長も大会長の知らないところで作成したデザインかと思われる。因みに、このプログラムの絵と対をなす裏表紙の絵は、VR学会の黒歴史の図の一つとして既に学会誌に掲載されている[7]。

図6 第1回大会のポスター

図7 第1回大会プログラムの表紙

大会長と幹事のペアによる大会の開催のスタイルは、その後も引き継がれた。第2回は、名古屋で福田敏男/新井史人、第3回は、札幌で伊福部達/井野秀一、第4回は、奈良で岸野文郎/北村喜文、第5回は、つくばで岩田洋夫/矢野博明(敬称略)の大会長と幹事のペアで成功裏に開催されたのである。この方式は、いまでも継承されている。

通常総会

第1回の通常総会は、1997年3月17日に,国立オリンピック記念青少年総合センターで開催された。総会にあわせて、橋本周司早稲田大学教授(当時)と出月康夫東京大学教授(当時)による特別講演が行われた。1998年3月24日に、東京大学工学部1号館にて開催された第2回通常総会では、山崎芳男,秋葉京子,梅沢直子の3氏により「VR空間オペラ」が上演され、1999年3月3日に東京都写真美術館で行われた第3回通常総会では、VR文化フォーラムが併催された。2000年3月7日に学士会館分館で行われた第4回通常総会では、野村万之丞氏をお招きし、2001年3月23日に新宿NSビルNSホールで開催された第5回通常総会は、ヒューマンメディアシンポジウムの同会場での開催とした。なお、この総会に特別講演や他のイベントを併催する方式は、2002年3月16日京都駅前のキャンパスプラザ京都で開催された第6回通常総会で併催された公開市民講座「バーチャルリアリティとコミュヌケーションの未来」まで続いたが、2003年からは、特別な講演会などは行わず、各種委員会と評議員会を行ってから総会というスタイルとなり現在に至っている。

 

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学術奨励賞・論文賞・メダル

1996年の第1回大会で優秀な研究講演を行った若い研究者5名に、1997年3月17日の第1回通常総会で、第1回の学術奨励賞が授与された。その5名は、鈴木伸介、苗村健、広田光一、中井恒介、奈良高明の各氏であった。四半世紀をすぎた現在、これらの受賞者の活躍には目をみはるものがある。それを見るとき、学術奨励賞の選定にあたられた委員の眼力には脱帽する以外ない。

学術奨励賞の授与に際して、メダルを贈呈することにした。そのメダルのデザインを、会長であった舘 暲は、舘研究室の大学院生だった稲見昌彦(現在:東京大学教授)に頼んだ。完成したメダルを図7に示す。エッシャーの発想のもとになったとも言われるペンローズの三角形を組み合わせたデザインである。加えて、舘は、そのメダルに virtual の真の意味である定義すなわち、existing in essence or effect though not in actual fact or form と刻印するよう指示した。また、受賞者の氏名をメダルの裏側に刻印することにで、その人だけの特別なメダルになるように工夫した。なお、学術奨励賞のメダルは、同一デザインで、将来の論文賞と研究業績賞にも利用することを考えて、それに備えて、銅メダルとした。

第1回論文賞は、1999年9月30日の第4回日本VR学会大会で授与された。メダルは、予定どおり、銀メダルとした。金メダルについては,VR研究における長い期間にわたる研究業績を讃える研究業績賞に使われる。なお、研究業績賞は、例えば、VR分野で優れた業績を挙げ、VR学会の論文賞を複数回受賞し、70歳とか75歳とかの高齢に達したVR学会会員の生涯業績に対しての表彰である。

図8 VR学会のメダル

 

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論文誌・ニューズレター・学会誌

論文誌は、1996年の発刊当初は論文集としたが、大会論文集と区別しやすくするために、1998年から、論文誌に名称を変更した。英文名は、当初からTransaction であり変わらない。年4回(季刊) 3、 6、 9、 12月とし、1996年のみは、年2回(9月,1 2月)で、全体分野からの論文を集めるが、1997年以降は、論文小特集と一般論文の両者を扱っている。この論文誌は、岩田洋夫(当時筑波大学助教授)が担当し、当初は、筑波大学の岩田研究室に論文誌の事務部門を設けて運営された。VR学会が、事務局を持つようになって、論文誌の担当者が、本郷山越ビルに合流したが、その後、学会業務委託になって現在に至っている。

迅速に学会の活動を会員に知らせるため、ニューズレターを発刊した。担当した理事は、佐藤誠、池井寧の両氏であった。月l回の発行で、世の中に先駆けて e-mailで送付した。いま世の中に溢れているメールマガジンの先駆けである。日本の学会で、ニューズレターをメールで配信したのは日本で最初であるとされている。今と違い、メールがない会員には、faxや郵便も、郵送料を会員が負担すれば選択できるようにした。

学会誌は、当初、会長の舘 暲が担当した。ニューズレターが充実した内容を記載しているにもかかわらずe-mailだけでは、印刷されたものとして残らないので、それを学会誌に転載して記録として残るようにした。また、特集記事としては、設立記念講演会や、通常総会、大会などの特別講演を講述筆記して、それをもとにアーティクルにして掲載した。折角の講演がその場限りで消失してしまうのを紙媒体の記録に止めたのである。また、理事会の内容なども掲載して、学会が会員皆の作り上げるものであるとの意識の向上に努めた。

1998年からは、多くの学会がそうであるように、学会誌担当の理事の下、学会誌編集委員会が構成される、現在のスタイルに移行した。

 

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文化フォーラム

学会の当初から技術と芸術の統合を人間のための科学技術という視座から目指していたことは既に述べた。その一つの側面が、文化としてのVRである。VR文化フォーラムは、当然ながら、河口洋一郎を中心に企画された。第1回のVR文化フォーラムは、1997年5月23日、恵比寿ガーデンプレイスにある東京都写真美術館の1階ホールにて、「リアリティを超えて」というテーマで行われた。小田晋vs舘暲、瀬名秀明+大橋力vs服部桂、押井守+廣瀬通孝vs浜野保樹、河口洋一郎+伊東順二vs馬場靖憲、岩田洋夫+串山久美子+杉山知之、クリスタ・ソムラ+ロラン・ミニョノーという当時のVRに関連するアーティスト、クリエータ、サイエンティスト、ジャーナリストが大集合した画期的な催しとなった[8]。

その後も、文化フォーラムは、1998年、屋久島、1999年、写真美術館、2000年、バリ島と多彩な企画力で、日本のみならず海外でも実施されたのである。

 

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学会ロゴ

1996年11月14日(木)の理事会において、学会ロゴマークについて検討し、その結果、選考委員長は釜江尚彦副会長、副委員長は河口洋一郎、杉山知之の体制が出来上がった。応募は会員外でも可で応募資格は問わない。VRSJ(大文字or小文字)を入れることのみが条件でデザインは自由、フルカラー、黒白バージョンを作る。将来、動画とすることが可能な場合は、コメントを付けてもらう。買い取りで、意匠権は学会に属する。賞金¥200,000を1997年度予算から支出などの記載が、当時の理事会記録にある。その結果、当時筑波大学講師であった原田泰(現在:公立はこだて未来大学教授)のデザインによる現在の学会のロゴが選定されたのである。10年は使えることを目指してデザインされたそうであるが、四半世紀を経ても、全く古くなっていない。

 

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岐阜県との協働

当時岐阜県知事であった梶原拓には先見の明があり、これからの科学技術を支援して、それを、岐阜の活力の源として「暮らしよい岐阜県」の実現を目指すべく、様々な施策を展開していた。既に、大垣市には、1994年に情報産業を育成・振興・集積する中核拠点としてソフトピアジャパンが創られ、また1996年からは、高度IT人材育成の拠点としてIAMAS(イアマス:情報科学芸術大学院大学)が開設される運びとなっていた。加えて、さらにその先を見据えた科学技術としてVRに着目し、1993年から、VRテクノセンターを各務原に組織し、それの拠点としてのVRテクノプラザの建設を計画していた。その岐阜県のVRに、日本VR学会が協力することになったのである。それは、VRの振興と社会への実装を考える日本VR学会にとって望ましい協力であった。それが、1996年4月2日に舘 暲と梶原 拓で行われた頂上会談の骨子の一つであった。その後、創立した日本VR学会、特に、舘 暲と廣瀬通孝は、各務原のVRテクノプラザに大きく関わってゆくことになる。

岐阜のVRの象徴ともいうべきVRテクノプラザ(現在は,テクノプラザ)は、パリのポンピドゥ・センターで有名な建築家のリチャード・ロジャースにより設計され、1998年7月に各務原の地に完成した。1998年の11月20日(金)17:00から、ロジャース氏も出席し点灯式が行われた。VRテクノの照明がすべて消され、皆が、建物を見渡せる小高い丘に集まり、テープカットにかわり、照明のスイッチを入れる。それに併せて、VRテクノの照明が一斉に点灯され、薄暮の空に、VRテクノの美しい姿が浮かび上がった。VR学会会長の舘も学会を代表してスイッチを入れた。続いて、VR学会と岐阜県共催で舘が実行委員長を務める「学生対抗バーチャルリアリティコンテスト(IVRC)決勝大会」とVR学会によるシンポジウム「暮らしとVR」が開催された。まさに、VR学会関連イベントが、VRテクノの柿落としの役割を務めたのである。廣瀬通孝監修となる岐阜版CAVE /CABINであるCOSMOSも、4面/5面から6面に進化し、この日から運用を開始した。

図9 VRテクノジャパンのテレホンカード

 

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引用文献

[1] 舘 暲: 日本のVR -「VR 黎明期の記憶」, 日本バーチャルリアリティ学会誌, Vol.11, No.2, pp.85-88 (2006.6) [PDF]
[2] 舘 暲: 会長退任の挨拶, 日本バーチャルリアリティ学会誌, Vol.6, No.1, pp.6-7 (2001.6) [PDF]
[3] 舘 暲: 日本VR学会の設立にあたって, 日本バーチャルリアリティ学会誌, Vol.1, p.4 (1996.12) [PDF]
[4] 舘 暲: 原点回帰‐バーチャルリアリティとテレイグジスタンスの将来を見据えて‐,日本バーチャルリアリティ学会誌,Vol. 17, No. 4, pp.6-17 (2012.12) [PDF]
[5] 設立総会・記念講演会,日本バーチャルリアリティ学会誌,Vol.1, pp.7-33 (1996.12)
[6] 日本VR学会第1回大会,日本バーチャルリアリティ学会誌,Vol.1, pp.35-46 (1996.12)
[7] 鳴海拓志:「日本VRの黒歴史」をめぐる冒険,日本バーチャルリアリティ学会誌, Vol.20, No.4, p.15 (2015.12)
[8] VR文化フォーラム’97,リアリティを超えて,日本バーチャルリアリティ学会誌,Vol.2, No.2, pp.4-40 (1997.12)